紙の価値

名前のない金
益嶋 「広木さん、立て替えてもらってた、この前の飲み会の代金、お渡しするの明日でいいですか?」

「いいけど、あれ?昨日、みんなから集金したって言ってなかったっけ?」

益嶋 「ええ、みんなには払ってもらったんですけどね、その集めたおカネを会社の机の抽斗に入れて、鍵かけて帰ったら、今日、机の鍵、忘れちゃったんですよ」

会社の机に現金をしまうなど、元・銀行員だった僕からすれば考えられない非常識な行為である。銀行で自分の机から現金が見つかったりすれば厳罰ものだ。まあ、そのあたりは来店客もなければ現金の受け渡しもない、ネット証券ならではのことなのだろう。

「現金その場限り」という言葉がある。文字どおり、現金はその場でのみしか確認できないし、後ではどうにもならないということを戒めるものだ。世の中には悪い人間もいて、帯封をしたままの100万円の束にみせかて、ちゃっかり1枚だけ束から抜いて渡す、なんてことをする輩がたまにいる。悪い人間というよりセコい人間だ。だから、必ず客の目の前で帯封を破ってお札を勘定してみせなくてはならない。後で1万円足りませんでした、と言っても、受け取ってしまった後ではどうにも抗弁できない。

銀行で店を閉めた後、勘定合わせをするときに、1円でも合わなければ一大事である。床の上を這いつくばって硬貨が落ちていないか、伝票が落ちていないか探すのである。勘定が合うまで帰れない。いっそ、自分の財布から1円や10円を出してしまおう、と誰もが思う。おカネに色はないし、「誰々のおカネ」と名前がついているわけではないのだから。しかし、絶対にそれはやってはいけないことである。それをやったら銀行員失格である。なぜなら、それは、たかが1円や10円の問題ではなく、「信用創造」という銀行システムの根幹を揺るがすことにつながるからである。以上は、銀行員でありながら一度も銀行業務をした経験がない僕が、銀行員の先輩たちから異口同音に何度も聞かされた話である。

「益嶋、なんで机の抽斗なんかにしまったんだよ。ちゃんと自分で持っていればよかったじゃないか」

益嶋 「いやあ、そんな大金が自分のお財布のなかに入っていたら、なんだか自分のおカネが増えた気になって、使っちゃいそうで怖かったんですよ」

益嶋の気持ちはわからなくもない。
角田光代の小説『月の紙』がNHKでドラマ化された。銀行で働く真面目な普通の主婦が、ちょっとしたことからおカネを着服し、最終的には1億円を横領するというストーリーである。映画にもなるらしい。角田光代の小説がNHKでドラマ化され、続いて映画化されるというのは『八日目の蝉』と同じパターンである。

NHKドラマの第一話のタイトルは「名前のない金」。原田知世演じる主人公が化粧品の説明を受けて購入する気になる。8万円です、と言われ、そんな大金、持ち合わせがないと断りかけるのだが、ふと客から預かってきた現金を持っていることを思い出す。客から預かった現金の一部を化粧品の支払いに充て、後で自分の銀行口座から現金を引き出して客からの預り金に補填しておけばよい。おカネに名前は書いていないのだから。

それがすべての始まりだった。原田知世の着服はエスカレートしていき、預金証書を偽造するまでにもなった。いつか返せばいいんだ、と思いながら歯止めが効かなくなっていき、最後は…。興味をもたれた方は、小説を読むなり映画を観るなりしてください。

いつか返せばいいと思いながら、ひとのおカネを流用し続ける。どこかで見た光景だ。NHKドラマの『紙の月』ではない。我が日本政府もそうではないか。いや、政府については「いつか返せばいい」と思っているのかも怪しいものである。

ひとから預かったおカネを使い、後でそのひとの口座に充当しておく。それは銀行が普段から行っていることである。銀行は、手元にあるおカネの何倍も貸し出しに回している。すべての預金者が同時に預金を引き出すことはないという確率論にもとづく信用創造である。だから取り付け騒ぎが起きれば、銀行の手元資金はあっというまに枯渇して破綻してしまうのである。

デジタル・マネー
僕らは自分のおカネのすべてを見ていない。給料日に給料が自分の銀行口座に振り込まれる。以前は、「給料明細書」という紙を渡された。実際に現金を受け渡すのではなく、明細書という「紙」を渡されることで、給料をもらったということになっていた。後で銀行に行って通帳を記帳すれば、ちゃんと会社から給料が振り込まれていることが確認できた。しかし、その過程でも現金は見ていない。僕らが見ていたのは給与明細書や預金通帳に「印字された数字」だけである。

ネットバンキングが普及した今は「紙」の受け渡しや記帳がない。紙の「給料明細書」は「ウェブ明細システム」に変わった。銀行で通帳を記入しなくても、ウェブで残高照会、入出金明細、振込などすべて済んでしまう。パソコンのモニターに表示された「数字」を見て、給料が振り込まれたことを確認する。預金の残高がいくらあるかを確認する。しかし、実際の「現金」を見ていないことは変わらない。かつて見ていた「紙に印字された数字」が「パソコンのモニターに映し出される数字」に変わっただけである。

これもある意味、デジタルなマネーを信じていると言えるのだろうか?いや、僕らが信じているのはデジタルなマネーやインターバンキングのシステムではない。「目に見える」おカネの形が、実物の硬貨であるか紙幣であるか、通帳に記帳された印字であるか、あるいはパソコンのモニター内に表示される数字であるか、それは関係ない。その裏にある(はずの)おカネの「在り処」、つまり銀行に対する信用がマネーのシステムを成り立たせている。もちろん、底辺には「円」という日本の通貨に対する信用があるのは言うまでもない。

仮想通貨
インターネット上の仮想通貨「ビットコイン」の取引所大手、マウントゴックスが東京地裁に民事再生法の適用を申請して以来というもの、ビットコインを巡る話題で持ち切りだ。

ビットコインは通貨なのか?ウォーレン・バフェットは通貨でないという。貨幣論の専門家、国際基督教大学の岩井克人客員教授は「貨幣の一歩手前だ」という。大昔は貝殻や塩、金などが貨幣だったように、多くの人が『貨幣である』と信じることでモノが貨幣になる。だが、ビットコインはそこまで広がっていないから、というのがその理由。通貨と言うものは人々が「通貨として」通用すると考えるから通貨足り得る、という自己循環論法が岩井先生の持論だ。

そのうえで岩井先生は、こう述べている。
「9割くらいの確率でビットコインはつぶれるだろうと考えている。理由の一つは投機目的で価値が高騰しているが、バブルはいつか崩壊するからだ。また、中央銀行が制御できないと金融政策の効果が弱まる。このため政府や中央銀行がなんらかの形で規制に乗り出す可能性が高い」(2月3日、産経新聞電子版)

これはマウントゴックスが破綻する前、政府がビットコインは通貨ではなくコモディティーと同じモノであるとの見解を出す1カ月前の発言だから、さすが専門家、素晴らしい慧眼である。

市場の運営方法やセキュリティー上の脆弱性など今回のマウントゴックスを巡る騒動は、確かに「チャンチャン」というカンジだが、これをもってしてインターネット上の仮想通貨が成り立たないというのは早計だろう。なぜなら、さきほど見事な慧眼を示してくれた岩井先生の持論、人々が「通貨として」通用すると考えるから通貨足り得る、という自己循環論法が通貨の基本なら、多くの人々が信じるようになればいい。貝殻だって煤けた金属だって、それがおカネだと思うからおカネになったのだから。

先日、朝日新聞の投書欄に14歳の中学生男子の投稿が掲載された。ビットコインの取引所が破綻したというニュースに興味を持った理由は、彼ら中学生にも身近な仮想通貨があるからだという。スマホのゲームで展開を有利にするアイテムを買うための通貨のことである。彼は、お金を使う実感がないまま浪費しそうで不安だと述べている。

中国と仮想通貨の親和性
渋谷に拠点を置いたマウントゴックスだがその利用者の大半は外国人で日本人はほとんどいないと言われている。日本ではそれほど普及していなかったのだ。それに比べて中国では仮想通貨への投資は過熱とも言える状態である。

中国のビットコイン専門の大手取引所であるBTCチャイナは取引量で一時世界最大となり、全世界の3分の1を占めるまでになった。マウントゴックス破綻後も正常に(?)機能している。中国のグーグルとも呼ばれるインターネット検索サイト最大手の百度(バイドゥ)は一部サービスの決済手段としてビットコインを受け入れている。

中国人民銀行の周小川総裁は預金金利の自由化について「1、2年で実現できる可能性が高い」と述べ、預金金利の上限撤廃について初めて時期を明らかにした。全国人民代表大会(全人代)に合わせて開かれた金融監督当局トップによる記者会見で語ったと報道された。周総裁は「新しい金融商品が金利自由化を推進している」と述べ、銀行預金より金利が高い個人向けの理財商品の増加が、自由化推進の背景にあるとの見方を示したという。

「金利自由化を推進する新しい金融商品」とは? 「銀行預金より金利が高い個人向けの理財商品」とは?それはずばり、「余額宝」(英語表記:Yu Ebao)である。

「余額宝」はアリババの提供するサービスで、あえて例えるならばMMFやMRFのような短期金融ファンドである。アリババは中国の電子商取引最大手。中国のネット通販はクレジットカードではなく、「支付宝 Alipay」というオンライン支払いプラットホームで決済するのが一般的である。「支付宝 Alipay」はあくまで決済用の口座だから、そこに入っているおカネには利息が付かなかった。「余額宝」が開発されたことで、ユーザーは「支付宝 Alipay」にあるおカネを「余額宝」に投資できるようになった。例えるならば金利の付かない決済用の当座預金にある余剰資金をMRFにスィープできるようになったのである。「余額宝」の運用資産残高は5000億元(814億ドル)、顧客数は8100万人に達したという。これは中国全体の株式口座数を上回る。資産残高814億ドルということは円換算して約8兆4000億円。日本のMRFの総資産残高が約10兆円だから、「余額宝」1ファンドで日本のMRFのすべてに匹敵する規模だ。

日本では「理財商品=シャドーバンキング=危険」と見なされがちだが、その一部はオンラインMMFとして急速に普及しているのが実態である。ついに中国の中央銀行総裁に「新しい金融商品が金利自由化を推進している」とまで言わしめたのだ。

オンライン金融商品は「余額宝」だけでない。「騰訊 Tencent」の理財通貨ファンド「理財通」は利回りが余額宝を上回る。さらに春節前から「微信で紅包(お年玉)争奪」というゲームがコンピュータ・ウィルスのようにチャットアプリ「微信 WeChat」ユーザーの間に急速に広まっているという。チャットアプリ「微信 WeChat」は中国版LINEともいうべきもの。騰訊 (Tencent)が運営している。ユーザー数が6億を超える微信のプラットホームで急速に普及し、「理財通」の拡大と相乗効果をあげているという。

こう見てくると中国における仮想通貨は、「通貨」というより「投機」あるいは「財テク」の一環であるようだ。少なくとも、朝日新聞に投書した14歳の中学生男子の心配は、中国では共有されているとは言いがたい。

堂々巡り
3月3日付けレポート「桃の節句に遠慮近憂」では、日銀が国債を買い入れて量的緩和を行っても効果は限られると述べた。そこでは「ワルラスの法則」を引き合いに出して説明した。

デフレの下ではみんながキャッシュを持ちたがる。Cash is King (現金が王様)だ。だから、その旺盛な貨幣需要を、貨幣を供給することで緩和してやれば、「貨幣以外の市場」での供給過多がやんでデフレが解消されるはずである - これが「ワルラスの法則」をデフレからの脱出に応用した考え方である。

ここでのポイントは貨幣需要を緩和させてやることだが、日銀が国債を買い入れてしまっては貨幣需要は緩和しない。なぜなら、いまや貨幣=国債だからだ。この「マネーは負債であり、負債こそマネー」というフィリップ・コガンの言葉はこれまで何度となく引用してきた。

政府の借金は膨らむ一方である。すなわち国債は今後も増発される。それを民間が買う。民間のおカネが国債に振り替わる。今度はその国債を日銀が市場で民間から買う(国債の市中消化の原則)。民間のバランスシートでは国債からおカネに振り替わる。グルグル回っているだけだ。

日銀と民間銀行の間で国債とマネーの交換が行われているのだが、それも限界に近付いている。一昨日の日本経済新聞1面「国債取引増やし金利乱高下防ぐ」の記事には失笑を禁じ得なかった。日銀の大規模な金融緩和で、市場で取引できる国債が減っているため、財務省は債券市場の活性化に乗り出すという。「流動性供給入札」ですでに発行した国債のうち投資家の需要が強い銘柄を再発行し、その入札では証券会社と大手銀行に応札を義務づけるという。

「投資家の需要が強い銘柄を再発行」などというと、いかにも投資家の需要が強いから国債市場の流動性に偏りが生じたように聞こえるが、そもそも市場の流動性を枯渇させているのは日銀である。「流動性供給入札」の目的は、「特定銘柄の需給の著しい逼迫等の要因により国債流通市場の流動性が低下し、国債市場の機能が損なわれることを回避する観点等から、国債市場の流動性の維持および向上等を目的として実施する」ものである。つまり、本来は投資家の選好や保有状況(満期保有で市場に出てこない)といったことによる需給の偏りを調整するためのものであるのだ。

この際、日銀も投資家である、とか、日銀と財務省=政府は違う、などという屁理屈は抜きにしよう。財務省管轄の認可法人であり、国庫金の出納を行う政府の銀行である日銀が市場から国債を買い上げて、流動性が枯渇したので財務省が国債を再発行するという。それを民間の金融機関が応札することを義務付ける - つまり買えという。一方で日銀は売り渡せという。これは「堂々巡り」以外の何物でもない。

それにしたって、「マネーは負債であり、負債こそマネー」ならば、ある意味、おカネとおカネを交換しているようなものである。

岩井先生の弁をまた紹介しよう。
「貨幣とは他の人に渡す『予想』の上で成立している。それ自体に価値はないため、本質的な意味で投機的だ。人々が価値がないと思ったらインフレを起こす。そこを最終的に支えているのが中央銀行だが、ビットコインにはそれがない。自由放任では、お金の価値は必ず崩壊する」

ビットコインは政府や中央銀行の信任が背景にあるわけではない。だから必ず崩壊する、と岩井先生は述べている。先ほど、中国のオンライン金融商品は「通貨」でなく「投機」だと述べたが、岩井先生によれば「貨幣とは本質的な意味で投機」であるという。

我が国の通貨「円」は、もちろん、政府・日銀の信任が裏付けにある。しかし - その政府は1000円兆円の債務を抱え、その債務の証書である国債は日銀が大量に保有する。政府が債務を膨張させ、国債を大量に発行する。日銀がその国債を大量に買い取る。その見返りに銀行の金庫には大量のマネーが眠る。それらは基本的にすべて同じである。「円」の裏付けが政府・日銀の信任であるならば、政府債務も日銀が買い取るその証書、国債も、そして「円」もすべて等価である。

3月3日付け「桃の節句に遠慮近憂」でも強調したように、日本は財政破綻などしないし、国債が暴落して紙くずになることはない。紙くずにはならないが、原価を大幅に上回る評価が続く保証はどこにもない。本来はただの紙切れなのだから。平成12年度の特別会計ベースというデータによれば、紙幣を印刷する財務省印刷局から、発行元の日本銀行に渡す時の価格は、1万円札で約22円。それが「紙」としての1万円の価値である。

米国のテレビCMはよくできているものが多い。10年以上も昔だが米国に暮らしていた時に見て、いまだに記憶に残っているのはビールのバドワイザーのCMだ。但し、米国社会のある「特徴」を理解していないと、その面白さがわからない。それは、

・ ゲイのカップルが多く暮らしている。
・ カード社会だから現金を持ち歩く習慣がない。
・ そんなカード社会でありながら、スーパーマーケットのカードリーダーはしょっちゅう不具合を起こしてカードが読み込めない。
・ スーパーマーケットで買い物をすると、「ペーパー・オア・プラスティック?」と訊かれる。ペーパー(紙袋)かプラスティック(ビニール袋)か、どっちにするか、ということだ。

深夜のスーパーマーケットに男性二人がやってくる。二人は生活必需品を中心に、買い物かごに商品を入れてレジにいく。そこで案の定、カードリーダーが彼らのカードを読み込まない。レジのおばちゃんは悪びれもせず、肩をすくめる。キャッシュで払えというのだ。

ジーパンのポケットを探る二人。出てきたのはわずかのコイン。それで足りるだけ、それで買えるだけの分量になるまで、買い物かごから商品を諦めて出していく。どんどんギブアップは続くがレジのおばちゃんは首を横に振るばかり。「全然足りない」と。

そしてついに。最後に二つの商品が残った。絶対に譲れない、まさに必要な品である。それはバドワイザーとトイレットペーパーの一巻。苦悩する二人。ドラムロールが緊迫感を盛り上げる。もちろんバドのCMだから最後はバドワイザーが選ばれる。

レジで会計を済ませて、お決まりの台詞をおばちゃんが言う。
「ペーパー・オア・プラスティック?」

そこで彼ら二人は声をそろえて、
「ペーパー、プリーズ!!」